◆平和地蔵の前で、「戦後75年名古屋空襲犠牲者追悼法要」を行いました。

                                           
 

 ピースあいちの前庭には、ご縁があって、1945年3月12日の名古屋市街地空襲の犠牲者を供養するため中区旧千早町の有志たちによって建立された「平和地蔵」がいらっしゃいます。来館されたみなさんや、ピースあいちの前を通られるご近所の方々にお参りしていただいています。

 

 3月14日午後4時からピースあいち前庭にある平和地蔵の前で、「戦後75年名古屋空襲犠牲者追悼法要」を行いました。ピースあいちでは、毎年3月に市民の方にも呼びかけをし、「名古屋空襲犠牲者慰霊の夕べ」のイベントを行ってきました。今年は、新型肺炎対策のためイベントを中止し、建昌寺ご住職、瑞光寺ご住職とスタッフによる法要となりました。

展覧会場の様子1

法要の様子

 75年前、米軍による名古屋空襲は1944年12月13日から1945年7月26日まで続きました。米軍の記録によると、東京、大阪、名古屋の三大都市でのB-29の出撃機数と投下した爆弾と焼夷弾の数は他都市と比較にならないほど多かったのです。
 米軍にとって名古屋は東京や大阪と並んで重要な攻撃目標であり、大きなものだけで軍需工場15回、市街地5回の合計20回の作戦が立てられ実行されていました。
 さらに少数機による空襲や小型機(P-51や艦載機)などを加えると、63回の空襲により、1万4千トン以上の爆弾と焼夷弾が投下され、7,802人(『新修名古屋市史第6巻』による)が犠牲になったとされていますが、行方不明とされた数も多く、今も正確な犠牲者数は不明のままです。