◆企画展「模擬原爆パンプキン―市民が明らかにした原爆投下訓練」に寄せて
運営委員 金子 力

                                           
 
 
展覧会場の様子1

 「模擬原爆パンプキン」をご存知ですか。実は、この言葉は30年前から広く知られるようになりました。長い間、原爆は広島と長崎に投下された特殊な爆弾で、通常爆弾とは関係がないもの、と思われてきました。こうした常識?を覆したのは専門家ではない、普通の市民団体でした。

 1991年、春日井市内でナゾの空襲をめぐって頭を抱える市民達がいました。終戦前日の8月14日午後春日井市内に空襲があり、2つの軍需工場とその周辺に4発の爆弾が投下されていました。その爆弾の威力はこれまでと違い、着弾地には直径14~16mの大きなクレーターをつくり、300m離れた民家まで赤熱した破片を飛ばし火災を発生させていました。
 翌日の正午、玉音放送を聞く傍らでまだくすぶっていたといいます。「あと1日戦争が早く終わっていたら…」家族や家を失った人々は、戦後そう思い続けてきたといいます。ところが、これまでに明らかになっている米軍資料には、8月14日春日井に爆弾を投下したB-29の記録がなかったのです。

 米軍は日本本土に出撃したB-29爆撃機や小型機の出撃の詳細な記録を公文書として保存、公開しています。日本の国会図書館もその一部をアメリカから取り寄せて資料を公開しています。空襲研究者によると、各地の空襲の事実を調べる方法として、地上の体験と上空の米軍の意図を重ね合わせることによって事実を確定できるとされています。
 市民たちは国会図書館憲政資料室で10万ページほどある米軍資料の中から、8月14日鳥居松製造所と鷹来製造所(ともに春日井市)に爆弾を投下したB-29の記録を見つけます。それは1枚のリストと日本列島の地図でした。

 驚いたことに、それは通常の爆弾を投下する部隊ではなく、原爆投下専門の部隊の記録でした。その記録には、原爆を投下した広島と長崎以外の都市に、1万ポンドの超大型爆弾を50発(海上投棄1発を含む)投下した日時や場所が記されていました。
 その範囲は福島県から山口県まで17都府県30都市への攻撃一覧表でした。このことが報道されると各地で市民による着弾地の調査が始まり、1万ポンド爆弾の破片の発見、証言記録づくりなど様々な取り組みが広がっていきました。

 研究者によるアメリカでの新資料の発見と翻訳などにより、1万ポンド爆弾は原爆投下訓練用の「パンプキン」と名付けられた模擬原爆であることも証明されました。パンプキンを投下していたのは、まぎれもなく原爆を投下した部隊509混成群団で、広島と長崎への投下が遠い出来事ではなかったことも分かってきました。
 さらに、模擬原爆パンプキンによって400人以上の方が犠牲となり、1200人以上の方が負傷されたことが調査に当たった市民のネットワークで明らかになっていきました。

展覧会場の様子1

これまでに発刊された様々な関連書籍

 

 市民が協力して歴史を書き換えることができたのは、米国の情報公開制度による公文書の保存と公開です。それに、被害などを自主的に調べる市民がネットワークでつながることによって、模擬原爆パンプキン投下の事実が地上でも明らかになっていきました。
 また、模擬原爆投下の事実を継承する活動も各地で取り組まれてきました。国内最大のパンプキンの破片は福島に残されていました。長岡市、島田市、大津市では行政によってパンプキンの実物大模型がつくられ、毎年展示されています。「模擬原子爆弾投下地」の銘が入った碑が大阪市、長岡市の着弾地付近に建てられています。慰霊祭、ミュージカルの上演、児童文学作家による作品など様々な形で続けられています。

 今回の企画展では、こうしたパンプキン追跡の30年を展示するとともに、各地の調査と継承についての交流会を開きます。4月7日(火)午前11時から展示解説、5月30日(土)午後1時30分から各地で調査にあたった市民グループの代表による交流会を予定しています。