時をつなぐモノたちの声―第7回寄贈品展◆オープニングから
運営委員 坂井 栄子

                                           
 
展覧会場の様子1

オープニングイベント

 12月7日から第7回寄贈品展「時をつなぐモノたちの声」を開催しています。初日にはオープニングイベントを行い、寄贈者の方々から寄贈されたモノに関するエピソードや当時の体験を話していただきました。

  「戦ふ名古屋の女学生」という母校の記事が載っている『少女の友』を寄贈していただいた今井美代子さんは、1943年に金城女子専門学校に入学しました。「田舎から都会への電車通学で自由な雰囲気を味わい、学校生活は楽しかった」。
 ミッションスクールということで制限はありましたかという問いかけにも、「朝には礼拝があり、英語の授業もしましたよ」とのことでした。ただ、「お国に協力する」ということで、金城学園が軍用機を献納するために献金をしたことを、後日、姉の日記から知り、そんなにたくさんの寄付をと思ったそうです。
 1944年からは学徒動員で愛知航空機へ。1945年6月9日の熱田空襲の時は電車の都合により、「自分は難を逃れたが顔なじみの人々が命を落としたことを知り、思い起こすのも嫌だった」と話されました。

展覧会場の様子2

展示会場の様子

 名古屋中学から名古屋陸軍造兵廠鳥居松製造所へ学徒動員として勤務していた加藤勇夫さんは、1930年生まれの89歳。寄贈していただいたのは「認識票」です。本来は軍隊などで隊員が身につける札ですが、勤務先、学徒動員、個人番号が刻印してあります。
 鳥居松製造所で作っていたのは三八式歩兵銃の薬きょうのケースでしたが、「工場の2階では秘密裏に風船爆弾の製造が行われていた。その製造過程でこんにゃく糊が使われたので、給食にこんにゃくがよく出てきた」と。
 動員先では同級生の被災もなかったとのことですが、実家のある名古屋市中区では度重なる空襲に遭い、「あたり一面焼け野原となった光景を見て『茫然自失』という言葉はこういうときに使うのだと知った」と言われました。

 

 召集令状を受けてわずか2ヶ月後に乗っていた船がアメリカの機雷を受けて沈没し、父親が亡くなったとの荒川道雄さんの話もありました。
 軍艦では攻撃を受けるということで、わざわざ商船に乗り換えたのに、狙われたとのことで、「戦争末期になれば、日本の何処の海であろうと船は危なかったということですね」とお話しになりました。

 

 限られた時間では語り尽くせないほどのエピソードがある寄贈品の数々です。展示会場ではじっくりご覧になっていただければと思います。