◆あの日から75年―学童疎開の同窓会
ピースあいち語り手の会 小笠原 淳子

                                           
 

 2019年12月1日午前11時、神戸から、加西から、大津から、名古屋から、87才の老婆たち8人が京都駅に集合した。今から75年前、国民学校と言われた当時の小学校、神戸市立東須磨国民学校6年生のメンバーたちの同窓会である。
 何年ぶりか 何十年ぶりかに顔を合わせて久闊(きゅうかつ)を叙(じょ)す。
 久し振りだねえ!長生きしたねえ!と尽きせぬ話に花が咲き、ご馳走を頂き、12才の夏から冬にかけての思い出に浸る。そうして75年前と同じように枕を並べて眠るという体験をするとは…。私は何と稀有の体験をしたのだろうか。

展覧会場の様子1

小学生に戦争体験を語る小笠原さん

 1944(昭和19)年8月、私達6年生の女子生徒は60人ばかり、2人の先生に引率されて、兵庫県立竜野高等女学校の教室を宿舎として、7ヶ月間、学童集団疎開生活をともにした。
 その間の暮らしぶりについては、常々語り手として話しているのでここでは書かない。

 校舎に女学生が一人もいなかったのはどうしてだろう?全員、学徒動員されて工場に行っていたのかしら?私達は教室を寝所として畳を敷き、布団を敷き、蚊帳を吊って、寝起きしていた。トイレは校舎の外にあるから、夜は山犬が出てくるのでこわかった。竜野へ疎開した日の夜は、みんなで修学旅行みたいにうれしがって、蚊帳の中で、蚊のことを<敵機襲来>とかなんとか言って騒いでいて叱られたねえ!などと、みんなよく憶えている。
 深まり行く秋、竜野の街は紅葉してとてもきれいだったけれど、お腹をすかせた下級生3年生の男の子が宿舎のお寺の庭に落ちた銀杏を食べて、急逝した事件などいろいろあったねえ!敵兵をやっつけるための薙刀訓練。毎日やってたけれど、大人は本気だったのだろうか?
 女学校の校門の前は 長いなだらかな坂が続いている桜並木だった。秋も深まったある夕暮れ、百代さんが私に囁いた。<日本は戦争に負けている>と。<誰にも言ったらあかんで~>と。私はびっくり仰天した。あの時どうしてあのような事を私に言ったの?
 75年経った今、聞いてみると、彼女曰く<あの人、近所のお兄ちゃん。慶應義塾出た新聞記者だった。あの後すぐ出征しはった>と。安否のほどはわからないと。

 1945年3月、卒業を目前にした全国の6年生、疎開学童たちの大都市への、帰還が始まった。その途端、待ってましたとばかりに空襲が始まる。3月10日の東京大空襲。名古屋空襲、大阪、神戸と…。庭の片隅の防空壕に飛び込む日々。
 4月、女学校の入学式の最中に空襲警報が出て防空壕に飛び込んだあと、私は田舎に疎開したので、6月5日の須磨の空襲は知らない。私の家も、この京都の旅行に参加した級友たちの家も、この日すべて焼き尽くされて灰になった。神戸に残っていた級友たちはその後8月15日まで為す術もなく…だったとの事。私は田舎の女学校で山の木々を伐って炭焼きに従事しつつ、終戦の日を迎えたのであった。その日、父がいざという時のためにと青酸カリを持参して帰宅したことを記憶している。

 87才の老婆たち、来年3月にまた生存を確認して、5月の宿を申し込むそうな…?