2019年夏の戦争体験語りシリーズから           
   



毎年恒例の「戦争体験語りシリーズ」が8月1日(木)から14日(水)まで開催され、「ピースあいち語り手の会」「ピースあいち語り継ぎ手の会」の方たちが、日替わりで来館者のみなさんにお話をしました(最終日15日は台風接近で暴風雨警報が発令されたため中止となりました)。連日、小学生とその親世代から戦争体験者世代まで会場はぎっしりうまり延べ588人の方が参加してくださいました。お話を、「ピースあいち」のボランティアが報告します。

●8月1日(木) 「名古屋空襲、学徒勤労動員」 斎藤 孝さん(1930年生まれ88歳)

絵はがき

私が生まれた翌年、満州事変がはじまった。戦時下で物資は不足するようになり、防空壕がいたる所に造られ、警戒警報が鳴ると「防空ずきん」をかぶって逃げた。昭和19年になると授業がなくなり、学徒動員で大江にある軍需工場の岡本工業に行き働いた。空襲は激しくなり、20年3月には、B29が爆弾や焼夷弾を落とし、そのたびに空襲警報が鳴った。5月に工場は壊滅し、今度は清州の基地で防空壕造りをさせられた。そして8月、広島と長崎に原子爆弾が落とされ、15日、天皇の「終戦の詔勅」を聴いた。翌日、名古屋に帰り見上げた雲一つない真青な空、「これが平和だ!」と思った。今日の私の話を聴いて「自分がどう思ったか」を考え、おうちの方に話してほしい。(小田鑑彦 記)

●8月2日(金) 「満蒙開拓者の戦前戦後」 平田 和香さん(1940年生まれ78歳)

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「皆さん、こんにちは」と挨拶があり、「私は語り手ではなく、語り継ぎ手です。」と言われた。78歳とは思えない若々しくチャーミングな佇まいの女性である。しかし、実に明確に満蒙開拓者の歴史や、開拓する入植地は北緯47度の寒冷地で、過酷な農地開拓を迫られた事など、地図を示して説明があり、具体的で、初めて聴く者にもその労苦が理解できた。平田さんが語り継いだ人達は、愛知県の東三河の146戸の500余名が渡満した中の、9人の体験者である。その記録をまとめ、『戦前・戦後をたくましく生きねばならなかった人たち―国策満蒙開拓に翻弄された人々―』という冊子を作成した(ピースあいちに保管)。ぜひとも、ご一読ください。 (大久保勝子 記)

●8月3日(土)「学童疎開、名古屋空襲」 今村 實さん(1933年生まれ86歳)

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1944年12歳の時、自宅のある名古屋から安城の祖父母宅へ疎開し、その間空襲には遭いませんでしたが、12月7日の東南海地震、45年1月13日の三河地震と2度の大きな地震に遭いました。1度目で土壁の落ちてしまった家で眠っていた深夜、2度目の地震で家は完全に倒壊、私は梁と梁の間に挟まれましたが辛うじて助かりました。しかし、祖母は梁が頭に当たり亡くなりました。 13歳になり名古屋に戻りましたが、今度は焼夷弾による空襲が本格的になり5月14日の空襲で今の名城公園近くにあった自宅は2階が焼け落ちてしまい、住めなくなってしまいました。名古屋城も焼けましたが、今晩どこで寝るのか途方に暮れる私には何の感慨もありませんでした。当時一緒に助かった妹も弟も既に亡くなり、思い出を話せる人がなく、寂しい思いです。(乳井公子 記)

●8月4日(日)「名古屋空襲―杉山千佐子さんの体験を語り継ぐ」 石川 薫さん

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石川さんは語り継ぎ手として、語りと映像と朗読を織り交ぜて分かりやすく杉山さんの半生を紹介された。
杉山さんは名古屋大学医学部勤務時代の1945年3月、29歳の折、空襲で顔面に重傷を負い、左眼球を喪失した。戦後、南山大学の寮母に就いた頃、同大の教員から“戦時中の民間空襲被害者を救済する法律”の話を聞き、1972年、「全国戦災傷害者連絡会」を立ち上げた。 “被災者は軍人・軍属だけではない”、“内地も海外の戦地と同じ戦場だった”、“戦災で死傷した民間人を補償する「戦時災害援護法制定」は国の責務だ”と訴え、101歳で亡くなるまで運動を続けた。杉山さんらの声に、政府は「国との雇用関係になかった」と門前払いを繰り返した。(桑原勝美 記)

●8月6日(火)「広島原爆被爆」 木下 冨枝さん(1936年生まれ83歳)

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74年前1945年8月6日、爆心地から1.2キロの我が家で、国民学校の教科書を読んでいた。一瞬外が真っ暗になり、母が頭から血を流していた。外に出ていた姉は、背中が半分燃えていた。近くに住んでいた叔父や叔母は建物の下敷きになり足が折れたりと祖母を助け出すのに時間がかかった。避難した親類宅には、被爆した人々でいっぱいだった。そこから5キロ先の離れ(物置)に住む。火傷した姉はずーっとうつぶせだったが、軍医の世話で回復した。父が家を修理し8か月ぶりに家に帰ったが、毎日毎日家の前を棺桶が通った。母が心配して髪の毛を引っ張ったり皮膚を確認していた。59歳で亡くなった姉の葬儀の帰りに広島平和記念館に寄ったら「ケロイドの少女」として映っていた姉の後姿を発見、立ち尽くし涙が止まらなかった。毎年一回広島市からアンケート調査があります。 (大久保清子 記)

●8月7日(水)「学童疎開、神戸空襲」 島村 悦子さん(1932年生まれ87歳)

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太平洋戦争開始から3年、サイパン陥落を期に本土空襲が容易となった。敵機の来襲必至を控え、学童疎開が実施されたのは昭和19年9月である。
大都市への空襲は、20年3月10日の東京をはじめ名古屋・大阪・神戸と続いた。中でも自分が国民学校に在籍し、集団疎開していた神戸は3回にわたって空襲を受け、20年3月17日B29/309機により西半分、5月11日にはB29/60機、6月5日にはB29/350機により東半分が大空襲を受けた。後々写真で見ると、すごい被災だったことがわかった。不発爆弾が防空壕に残っていたりもした。正直な気持ちとしては、87歳の今でも小学校へ入ってみたい。(林收 記)

●8月8日(木)「空襲、疎開・暮らし」 高山 孝子さん(1935年生まれ83歳)

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1944年6月に疎開した。招かざる客が来たわけで、食べる物は貧しく空腹で体力・抵抗力もおち、いろいろな病気も発症した。戦争で一番辛い、苦しい思いをするのは子供と女性といった弱い立場の人たち。権力・財力・情報等がある強い立場の人はうまく立ち回っている。こんな辛い思いをする戦争は2度とおこさせてはいけない。人間には言葉がある。話し合える。広い視野を持って生きてほしい。国があって個人があるのではない。個人があって国がある。ひとりひとりの命が一番大事。再度言う戦争をやっては絶対ダメ。 (長谷川保郎 記)

●8月9日(金)「国民学校生活」 原 宜子さん(1934年生まれ84歳)

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戦争のため、尋常小学校が廃止され、軍国主義教育目的の「国民学校」が設立された。子どもらはそこへ通うことになり、それまでの生活は一変した。今までと校舎・教師は同じでも教育内容に大きな違いがあった。教育勅語に基づき、天皇を神とする皇国思想教育であった。子どもらの学校生活は、衣服は軍隊スタイル、教育内容、あらゆるところに米英敵視が込められていた。このような体制の中で教え込まれた。そして広島・長崎に原爆が落とされついに敗戦を迎える。原さんはこの酷い経験を通して、過去の歴史が記憶され、そこから学ばなくては過去の過ちはくり返すと、切に願い強調された。私たちも強く思うのである。(峯澤叶美 記)

●8月10日(土)「学徒勤労動員」 望月 菊枝さん(1930年生まれ89歳)

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1944年、第三高等女学校2年の2学期頃から授業はなくなり、私のクラスは大曽根にある三菱電機へ学徒動員されました。日に日に工場に対する空襲の回数が増え、校長先生の計らいにより学校で工場の仕事をすることになりました。
1945年1月23日学校が空襲を受け、私の入った隣の防空壕は爆弾の直撃で学友42名が無残な死を遂げました。壕から出るとすり鉢状に空いた穴の周辺に埋まっている腕、足、体の一部が目に飛び込んできましたが、その後のことは記憶が抜け落ちています。記録によると、掘り起こされた遺体は出来るだけ綺麗にして、工場のトラックで遺族の元に返されたようです。
夜ようやく帰宅することができた私を、父が「おぉ、助かったか」と安堵の声をあげて出迎えてくれました。(乳井公子 記)

●8月11日(日)「学童疎開」 八神 邦子さん(1935年生まれ84歳)

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八神さんは最初に今日の中日新聞の記事「74年前、駅に子があふれ」を紹介された。「今ならお盆の帰省や旅行で駅にいると思うでしょうが、この子たちは違います」そう言って、ご自分の学童疎開の体験を話し始めた。1944年8月、ちょうど今日11日から学童疎開が始まり、最初は伊勢神宮のそばの旅館、1ヶ月半後には寺へ移った。当時9歳、小学校3年生だった。学童疎開とは「さみしい」「ひもじい」「かゆい」の3つだった。「さみしい」は親と離れて暮らさなければならないこと。「ひもじい」はとにかく食料がなく、常に食べ物のことを考えていたこと。親が持たせてくれた胃腸薬まで食べた。「かゆい」も常に付きまとったこと。身体はシラミ、ノミに喰われ、頭はケジラミとその卵で真っ白な状態だった。
戦争が終わった時、嬉しいよりも不安。親とは連絡が取れておらず、迎えに来てくれるだろうかと心配だったが11月に迎えに来てくれて帰れた。でも迎えが来ない子どももいた。その子たちが戦争孤児になり駅に住んでいたのだ。
八神さんは、戦争は戦場の兵隊だけでなく全ての人を悲惨な目にあわせてしまうことを知ってほしいと思い語り続けていると言う。(木村麻子 記)

●8月13日(火)「戦後、東山動物園で生き残ったゾウに乗って」 萩原 量吉さん(1940年生まれ78歳)

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―戦争が終わって4年ほどたった9歳の頃のお話―戦争が終わって一番覚えているのは、ひもじかったこと。なんでも口に入れた。ヘビやカエルまでも。そのころ学校から遠足で名古屋へゾウを見に行くことになった。三重の津からゾウ列車に乗って。そして、東山動物園で生き残ったぞう(エルド)に乗せてもらった。ゾウの背中は固くて、ズボンを通してもお尻が痛かった。その記念写真に同窓の朝鮮の子たちは写っていない。また、写っている同級生の中には、戦争で親を亡くした子もいる。人も動物も殺されることのない、動物園があたり前にある平和を、私たちは努力して守っていかなくてはならないと考えている。(水野早苗 記)

●8月14日(水)「神戸空襲、疎開と戦後の暮らし」 小笠原 淳子さん(1932年生まれ87歳)

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1944年8月から学童疎開(集団疎開)が始まった。6年生だった小笠原さんは、次の年の3月まで8か月間、疎開生活を送った。場所は兵庫県の高等女学校。60人くらいが「お腹がすいた、お腹がすいた」と言ってくらしていた。トイレはお墓のそば。石鹸がないので蚤・虱が衣類や頭にいっぱい。下肥運びもした(具体的に、小笠原さんご自身が書いた絵をかざしながら話された)。食べものは、大根めし、おかゆなどで、いつもお腹がすいていた。お手玉の中の豆、歯みがき粉も食べた。生の銀杏を食べて亡くなった子もいた。とにかくお腹がすいていた。―飢えを知らない、想像することが難しい小・中学生も一生懸命聞いた。(東野裕子 記)