語り継ぐ―「 父の沖縄戦 」を沖縄で語る―
ピースあいち語り継ぎ手の会代表 中村 桂子
南城市中央公民館 市民講座
感謝の気持ちを伝える長女日比野裕子「今日は、ありがとうございます。父は亡くなる前に、『今なお、屍とともに生きる』という本を自費出版しました。父にとって、沖縄は家族のようなもので、この沖縄は人生すべてでした。」
自分の名前の言われを語る次女清水糸子「私は、1950年5月24日に、双子で産まれました。父は、人々の命を守ってくれた糸数アブチラガマの名前から二人に『糸子と数子』と名付けました。数子さんは生後8日目に亡くなりました。自分の名前を愛おしく思っています。戦火の中、父を助けてくださった皆様に感謝をしています。」
父の想いを語る筆者三女中村桂子「父は、『自分の命は、沖縄の自然ガマに守られ救われ生かされた』と言っていました。『戦争は、国と国がすること。我々兵士は戦闘=人殺しをしなければならなかった。人殺し反対!』とも。戦争は、勝っても負けても悲惨。平和への努力を託します。」
腹話術で沖縄戦を語る四女柳川たづ江「『肉弾攻撃で、戦車に飛び込んでいった兵士たちは、卵を床に落した時のように、骨も何もかもつぶれてしまう。一緒に戦っていた人たちが、一瞬で、服は布切れ、体は肉切れになって、ソテツの木に引っかかっていた』と、父は言いました。戦後、雛人形職人だった父は、玉城幼稚園に平和の象徴の雛人形を贈りました。」
「6月23日の沖縄慰霊の日に、沖縄の地で、話していただけませんか」
、明るい声が、私の耳元で響きました。私は沖縄の地で、父の沖縄戦を語り継ぐことができるという期待と同時に、沖縄戦での日本軍の加害性の糾弾があったらどうしようという不安が込み上げてきました。しかし、明るい声が続きました。
「大丈夫ですよ。私たちが守りますから。講話をお願いします。」
そして、この声の明るさが、私に、父 日比野勝広の沖縄戦での戦争体験(※1)を姉たちや妹と共に、4人で沖縄の地で語り継ごうという決心に変わりました。
2019年6月21日から24日まで、4人姉妹で沖縄に行ってきました。その時の様子の一部、6月22日、南城市中央公民館(市民講座=平和講話)での様子をお知らせします。
※父は、日本軍の一兵士として、嘉数の戦闘に参加する。その後、負傷し破傷風にかかり軍に見捨てられる。しかし、現、南城市糸数アブチラガマ(糸数壕)で、住民の方々に助けられ奇跡的に生き延びることができた。
父 日比野勝廣は、生前、沖縄を110回以上訪問しています。糸数アブチラガマの慰霊碑の前で、「おーい。今日は、会いに来たよ。一緒に死ぬのだと思っていたのに、不幸にも、僕だけ生きて帰って悪かった。今度産まれてくる時には、戦争のない平和な時に産まれてくるように、母親に頼もうな。こうこうとした太陽の下で、山の緑の下で、住もうじゃないか」と、夢や希望を叶えることなく、はかなく散って逝った兵士たちに語りかけていました。
今回、4人姉妹で、沖縄を訪れて、沖縄の人々との交流を通して、皆さんから「父の沖縄戦を語り継ぐ」ことの背中を押していただきました。父の想いを次の世代に語り継いでいこうと改めて決意した4人でした。
最後になりましたが、4人の講話を聞いていただいた方の感想を紹介させていただきます。
〇 日比野勝廣さんが亡くなって10年。4姉妹が、バトンを受け継いで今日まで至っています。戦争がどれだけ、人生を狂わせたかを知ることができました。私も、若い世代に、子どもたちに二度と戦争を起こさないよう平和の大切さを伝えていきたいです。
〇 戦争はその時だけでなく、終わった後も心に傷が残りその人の人生・家族にも戦争を背負わしてしまう、背負って生きてしまう大変なものだと感じました。