◆本当の意味での“愛”を考える◆「アリッサとヨシ~絵本に託す銃なき世界~」に参加して
吉永 智美(名古屋市立大学人文社会学部平田ゼミ生)            

                                           
 

 先月5月25日にピースあいちで行われた「アリッサとヨシ~絵本に託す銃なき世界~」にYoshiの会のメンバーとして参加させて頂きました。27年前アメリカで銃により息子さんを亡くされた服部夫妻のお話から始まったこの会は、伊藤さんとローラさんによる絵本の朗読、そして昨年2月、17人の命が奪われた悲惨な銃乱射事件が起きた地フロリダのMSD高校を訪問し絵本を犠牲者家族に手渡した清水夏波さんの報告、という流れで行われました。

絵はがき

「アリッサとヨシ」の参加者たちと

 その中で一番私の心に残ったのは清水さんがフロリダ報告の中で紹介した、現地のコミュニティセンターに寄せられたメッセージの一つである「I’ll teach my boys and students to love(息子や生徒に愛することを教えようと思う)」というメッセージです。あのような悲惨な事件を繰り返さない為に現地の人々が一番大切なものは何かと考えた結果の言葉であり、とても重みのあるものに感じました。
 このフロリダでの銃乱射事件が起こった当時、私はちょうどアメリカに短期留学をしている最中でした。朝の通学途中の車のラジオから流れてくるこのニュースに、今まで遠い国の他人事と思っていた銃問題が、一気に本当は身近で自分にも関係があるものという実感が湧くと同時に、強い恐怖を感じたことを今でも鮮明に覚えています。銃乱射事件が頻発する暴力的なアメリカ。一方で道行く人に気軽に話しかける明るく気さくなアメリカの人々。一つの国の持つ大きく異なる二面性に驚きを覚えました。

 

 私が滞在中関わった多くのアメリカ人はつたない私の英語に辛抱強く耳を傾け、良いと感じたことは率直に口に出し褒めてくれるなどオープンな雰囲気を身をもって感じました。
 何よりも私が驚いたのは、彼らが他人に対して自分の家族や友人についてとても嬉しそうに自慢することでした。日本ではそれらの行為はあまり良しとされていないと感じます。そんな環境の中で育った私は、始めのころ愛情を前面に出し素直に話す彼らの話を聞くと何故か気恥ずかしさを感じることもありました。滞在中毎週2日はホストシスターについて教会に行くのが日課でしたが、彼らはとても信仰深く、キリスト教について頻繁に詳しく話をしてくれました。
 ホームステイ終了直前、ホストシスターと一緒に映画に出かけ、帰宅しドアを開けるとそこには聖書を持ったホストファザーが立っていました。彼は私にこう問いかけました。「ここまでキリスト教について沢山話を聞いてきたと思うけど、キリスト教に改心する気になってくれた?君のためにこの聖書を買ったんだ。YESと言ってくれ!」。彼には何の悪気もなく自分の信仰している宗教を私にも信仰して欲しいという純粋な想いだけがあることが感じられました。しかし彼らに私が仏教を信仰していることは伝えていたので、それを認識した上での発言に悲しさも感じました。彼は日常生活の中で自分と共通する表の部分に関しては、私に共感し沢山の愛情を向けてくれました。しかし異なる点、特に自分の根底にある信念や宗教に関しても、たとえ他者と自分の間に違いがあったとしても、その違いを無理矢理自分の価値観に近づけるのではなく受け入れ、その差異に対しても愛情を持って接するべきだったのではないでしょうか。
 そこから感じられるのは、愛情には範囲があるということです。人間、自分と価値観の合う人とは仲良く愛情を持って接することができます。しかし本当の意味での愛情、他人を愛するということは、互いの違いを認め、愛を持って接することではないでしょうか。よくよく考えてみると私が滞在中関わりを持った大多数の方が教会関係の人でした。つまり彼らは一つの大きな共通点により固く結ばれているのです。だからこそ私にもその一員となりその繋がりの強さ、大きなコミュニティーとしての愛情を感じて欲しかったのでしょう。
 この例に限らず最近の世の中では、自分と似通ったものだけを受け入れ、異なる者は排除し、無理矢理ねじ伏せようという風潮を多々感じます。しかしこのような風潮が続く限り平和な世の中は訪れません。先ほど紹介した英語のメッセージには「息子や生徒に本当の意味での愛することを教えようと思う。自分と異なる価値観を認め尊重し、その違いも含めてその人を愛することを」という意味合いが込められていると思います。
 少しずつでも多くの人が本当の意味での愛情を持って他人に接することのできる世の中になることを願っています。