◆所蔵品から◆資料ナンバー7732 名古屋の新聞と沖縄戦の話
資料班



新聞綴り

新聞綴り

  5月21日から、新しい企画展「沖縄戦と子供たち」が始まりました。戦前から戦争中の沖縄、戦後の米国による統治下の沖縄、復帰後の基地とともにある沖縄、その中の子供たちに焦点を当てた展示です。
 名古屋の新聞で、戦争中の沖縄がどのように伝えられていたのか、以前寄贈をいただいた新聞の綴りの中からご紹介します。

毎日新聞1944年3月18日

毎日新聞1944年3月18日

 沖縄に第32軍が置かれた(兵士が大量に沖縄に流入した)1944年3月あたりの新聞を見ていたのですが、第32軍の関連の記事は見つかりません。(軍の情報はそのままでは出てこないのでしょうか。)
 かわりに、「女学生を一人前の看護婦に」の記事を見つけました。女学生が看護婦に、というのは沖縄に限ったことではなかったようです。
 「ひめゆり学徒隊」などの沖縄の女学生たちは、看護婦として軍隊と行動を共にし、戦闘に巻き込まれました。

毎日新聞1944年10月12日

毎日新聞1944年10月12日

 1944年10月12日の新聞です。
 10月10日の沖縄の空襲について伝えています。
 黒地に白抜きで「大本営発表」
 「……四次に亘(わた)り沖縄島、宮古島、奄美大島に来襲せり ……二十六機以上を追撃せり、我方地上及船舶に若干の損害あり」
 この時点での発表は「若干の損害」でした。


毎日新聞1944年10月16日

毎日新聞1944年10月16日

 4日後の新聞には詳しい被害が載っていました。
 「焼失倒壊八千余戸 死者百四十、全市殆ど(ほとんど)灰燼に」

 『沖縄県史』によると、「十・十空襲」による被害は、「家屋一万一四五〇戸が全壊あるいは焼失、死傷者は一四〇〇人を越えた。」 となっています。


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毎日新聞1945年3月29日

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中部日本新聞1945年4月2日

 1945年3月から4月、沖縄に米軍が上陸。このあたりはどのように報道されたのでしょう。3月29日の新聞によると、「敵米軍は」25日に渡嘉敷島、阿嘉島、座間味島に「上陸を開始」と書かれています。
 4月2日の新聞には、「敵・沖縄本島に上陸」の見出しがありました。

 『沖縄県史』によると、座間味島への上陸が26日、渡嘉敷島への上陸が27日、沖縄本島への上陸は、4月1日午前5時30分となっています。


中部日本新聞1945年6月4日

中部日本新聞1945年6月4日

 6月4日の新聞では、「沖縄戦局・重大化」「わが中核陣地突破 那覇、首里に侵入」
 「5月31日」に「わが主陣地たる那覇市内及び首里城址に侵入した」と書かれています。

 『沖縄戦史』によると、「二七日、第三十二軍司令官らは首里をあとにして……二九日に首里は米軍に占領された。」

 
中部日本新聞1945年6月26日

中部日本新聞1945年6月26日

 そして6月26日の新聞の「大本営発表(昭和二十年六月二十五日十四時三十分)」は、「六月十六日頃より逐次(ちくじ)敵の我(わが)主陣地内に滲透(しんとう)を許すの已(や)むなきに至れり」「六月二十二日以降細部の状況詳か(つまびらか)ならず」となっています。

 こちらも『沖縄県史』を読むと、「六月二十三日、第三十二軍牛島満司令官と長勇参謀長が自決し、組織的戦闘が終結した。」となっています。


 今回の記事を書くのに、 『沖縄県史 各論編 第六巻 沖縄戦』 (2017年 沖縄県教育委員会発行) を参考にしました。





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