◆企画展関連イベント「熱田空襲」ミニ解説(3月9日開催)参加感想記◆吹き飛ばされた『安全神話』の実例を教訓にしたい
ピースあいち会員 小出 裕            

                                           
 

 パワーポイントの画面で、名古屋・熱田(あつた)の愛知時計電機、愛知航空機などの軍需工場群と熱田神宮との位置関係が示されたとき、思いつくことがあった。
 熱田の地域には、天皇家の権威の源泉、三種神器の一つ「草薙の剣」を神体とする熱田神宮の「御加護」により、米軍の爆撃被害からも無縁だとする風説が、当時根強くあったという。この風説は地元民の切なる願いを反映していたかもしれないが、むしろ、「空襲を恐れず、仕事に邁進せよ」と、労働者に檄を飛ばす軍需企業側の意向が強く反映したものだろう。
 6月9日の爆撃は、二千余の人命を奪い、それらの工場を壊滅させたばかりか、文字通りの安全「神話」のウソ・イツワリをも吹き飛ばしたのであった。

絵はがき

講演する金子さん

 

 アジア太平洋戦争時の、米軍による日本爆撃の全体を、「した側」と「された側」双方からのデータを以て議論できるようになったのは、1970年代になってからのことであり、それは米軍側のデータ開示(1945年から25年後)と関係がある。
 講師をつとめた金子さんは、それらのデータを広く市民に知らせる活動を、当初から積極的にされている方でもあるから、「ミニ解説」とはいえ、要領を得、かつ本格的なものだった。さらに、展示スペースでの企画展「8分間で奪われた2000人のいのち」の展示物の一点ごとそれぞれに、大事なメッセージが込められていることが伝わった。

 同じ集いでは、名古屋市内私立高校生徒会の皆さんが、「名古屋空襲慰霊の日」制定を求める請願活動について報告した。レジュメも準備され、これまで議会関係者らに訴えてきた経験をふまえ、その語り口は手際よく明快。そんな若者に、戦争体験世代を含む、出席のみなさんの、暖かく頷く姿が、とても印象的だった。

展覧会場の様子1展覧会場の様子2

左:請願活動について報告  右:展覧会場の様子

 集いの終了後、当方が「県下の空襲戦災犠牲者名簿づくり」の活動をしていることを知って、一人の女性(Hさん)が近づいてきて、「6月9日の空襲で、動員学徒(学校不明)であった伯父が愛知時計で亡くなりました。それを記した戸籍を取り寄せました」と一枚のコピーを広げた。確かに「・・・昭和弐拾年六月九日午前九時四拾分名古屋市熱田區千年町船方拾五番地ニ於テ死亡・・・」とある。
 毎年夏に開催する「あいち平和のための戦争展」を通じて、2000年代なかごろから取り組んでいる「戦災・空襲犠牲者名さがし」では、6月9日の空襲犠牲者数は公に伝えられてきた2254名のうち、名まえが判明しているのは、昨年までに547名で、約4分の1でしかない。犠牲者名の公表となると、出身校を別にすると役所や企業はなぜか控える現実が、ある。
 Hさんには、その場で「後ほど確認してみます」と答え、帰宅後、犠牲者名簿を確認したものの、残念ながらその伯父さん名はなく、労作『哀惜 一〇〇〇人の青春~勤労学徒・死者の記録』(佐藤明夫著、2004年 風媒社)でも見つからなかった。尊い命の表現でもある「名」の抜かりや不明が、何故生じたのか、そのナゾ解きも密かに期するところではある。Hさんに感謝したい。
 死者を二度と見殺しはできない。夏の「戦争展」に向けた新たな取り組み課題の一つとなる。