◆所蔵品から◆資料ナンバー8715 掌中大名古屋区分地図 の話
「戦争の記憶」募集に寄せられた資料から資料班
掌中大名古屋区分地図 表紙
2015年12月からの、ピースあいち企画展「伝えたい!戦争の記憶―戦後70年応募資料・作品展」では、募集「戦争の記憶」期間中に皆様から寄せられたもの(遺品・体験記・聞き取りレポート・作品)をご紹介します。募集期間(1月から9月)に寄贈をいただいた実物資料は、「遺品」コーナーで展示する予定です。(現在、準備中です。)
今月の「所蔵品から」では、12月の展示でご紹介する予定の資料を少し早めに見ていただこうと思います。
今回の展示では、物資料(戦時遺品)・体験記・聞き取りレポートで、「場所」を表示しよう、と考えています。皆さんの暮らしている場所で、いつも通っている場所で、戦争中に何があったのか、興味を持って見ていただけるのではないかという狙いです。
そこで掌中大名古屋区分地図(昭和18年(1943年)発行)。清正堂書房(のちのアルプス社)の発行です。当時の名古屋市の地名がわかるので、いろいろ参考になりそう。
この地図では名古屋市のことを「大名古屋市」と呼んでいます。
掌中大名古屋区分地図(1943年)より。
当時の名古屋市は、中区・熱田区・東区・西区・中村区・中川区・港区・南区・昭和区・千種区の10区。
現在、名古屋には16の区があります。この地図が発行された1943年には、名古屋市の区の数は10でした。この地図が発行された翌年、1944年に北区・瑞穂(みずほ)区・栄(さかえ)区の3区ができます。(この時は、区の境界線が変わっただけで、名古屋市が広くなったわけではありません。)
東区・西区・南区は前から(名古屋市に区ができた時から)あったのですが、北区だけ後からできたのです。
戦後(1945年以降)に、栄区は中区に統合され、守山区、緑区、名東区、天白区ができて、途中で面積も増えて、今の名古屋市の形になります。
今のピースあいちのある場所は「名古屋市名東区」ですが、1943年当時だと「愛知郡猪高(いたか)村」です。地図のどこらへんかというと、右上(北東)の⑩千種(ちくさ)区よりも右(東)、地図の枠の外です。
掌中大名古屋区分地図(1943年)より。
上:千種区 下:千種区 町名一覧(部分)
千種区の地図を見てみます。赤い線は市バスと市電。現在は東西に地下鉄東山線が走っていますが、当時は地上に市電が走ってました。終点は東山公園。「ぞうれっしゃ」の東山動物園があるところです。
千種区は名古屋の東の端だったので、千種区の東のほうは、地図で見ると、道もほとんど描かれていません。
もう少し西のほう、「千種區」の表題の少し下にも、道のない広い土地があります。これは陸軍造兵廠(兵器工場)の場所です。地図にはそう書いてないけど。
裏面には町名一覧があります。イロハ順なので、アイウエオ順に慣れた頭では、いちいち「けふこえて……」とか「あさきゆめみし……」とか唱えないと目当ての町が探せないの。
今は無い町名があるかな、と調べてみました。ここに出ている範囲だと、若竹町(今は内山2丁目)と金森町(今は茶屋が坂1丁目)が今の町名一覧には載っていません。
(現在の町名は、名古屋市のウェブページ「千種区の町名一覧」を参考にしました。)
掌中大名古屋区分地図(1943年)より 東区(部分)
拡大した地図も見ていただこうと思います。東区の地図です。
この地図の左上(北西)の、上飯田(かみいいだ)町や平安通(へいあんどおり)のあたりは、今では北区ですが、1943年には東区でした。
ちょっと見にくいのですが、この図の下のほう、左右に走る赤い点線(バス路線です)のところに、「一中前」と赤字で書いてあるのがご覧いただけるでしょうか。縦に2本点線があって、その間のところです。「一中」というのは愛知一中、今の旭丘高校です。戦争中には予科練に志願し戦地へ行った生徒もいました。
こちらの地図にも、道路の線が描かれていない広い土地があります。ここには三菱発動機の工場があり、飛行機のエンジンを作っていました。空襲も受けています。
今ではこの広い敷地の一部はナゴヤドームになっています。
詳しい画像はこちらからどうぞ
http://www.peace-aichi.com/20151023_dainagoyachizu.pdf
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http://www.peace-aichi.com/05_objects.html