2014年戦跡ツアー
三重県北部の戦争遺跡(鈴鹿・四日市・菰野・桑名)を訪ねて
ボランティア(戦跡班) 小島 久志
10月19日、絶好の行楽日和に恵まれ、軍都鈴鹿市とその周辺をめぐる戦跡ツアーが開催されました。朝8時一社駅東のメガワールド前に全38名が集い、貸切バスで出発しました。
名二環・伊勢湾岸・東名阪を経て「御在所サービスエリア」で 小休憩。9時20分、 鈴鹿インター出口で今回のガイド役をお願いした岩脇彰さん・佐藤博子さん(三重県歴史教育者協議会)に同乗いただき、鈴鹿市内に入りました。
<コンクリート製掩体(えんたい)>
鈴鹿市三畑町
旧陸軍の飛行機の誘導路沿いにあり、補修、整備に供するシェルターでした。
現況は 幅28.6m 奥行23.1m 鉄筋コンクリート製の巨大な構築物です。当時は 盛り土を固めた上に木枠を載置。鉄筋を配した上に生コンを打設し養生した後、内側の土を掘り出して飛行機が収容できるスペースを造成する計画でした。しかし現存の遺構は天井が低いことから、床面の掘下げ工事の途中で敗戦となり放置 されたものと推測されています。現在は戦後移住された個人の所有となっており 、登録文化財になっています。
<鈴鹿海軍工廠 火工部工場跡>
鈴鹿市庄野町、平野町
鈴鹿海軍工廠は、航空機用の機関銃、弾丸及び信管、雷管の製造工場でした。周辺を歩きながら、岩脇さんの「戦争遺跡を探してください」の問いに、参加者は、「あれがそうだね」。住宅内に残る火薬庫跡は、物置などに利用されています。火管圧填工場跡は、アパートになっていました。
<鈴鹿海軍工廠 試射場標的跡>
鈴鹿市住吉町
機銃弾試射の標的に使用された、三方を頑丈なコンクリートの擁壁に囲まれた土塁です。近年、13mm 7.7mm口径の不発弾が出土しました。現在は民営のリサイクルセンターの所有地内で、土は撤去され壁の部分が残されています。
<第一鈴鹿海軍航空隊基地 隊門・哨所>
鈴鹿市白子南玉垣町
1937(昭和12)年、気候温暖で民家が少なく畑地や林野が点在する、この地域に新設された航空練習隊の門と歩哨所の遺構です。近年、地域再開発事業で鈴鹿医療科学大学白子キャンバス正門脇に移設整備されました。
午前中の見学を終え、待望のお食事は、あなご料理の「魚長」(伊勢若松)で「穴子一本天丼」 を賞味しました。路地向こうのマンションに「あなごメゾン」とマンション名が書かれているのに土地柄を感じながら、次の訪問先四日市市を目指しました。
<県(あがた)小学校奉安殿>
四日市市赤水町
1931(昭和6)年に落成した旧四日市市立県尋常高等小学校。当時、小学校で最も重要な建造物は「御真影」(天皇、皇后両陛下の写真)や「教育勅語」などの収納庫・奉安殿でした。
戦後 占領軍の指令で 一時校外に移動されたが、地域の篤志家によって現在地に再建され 卒業生のタイムカプセルとして再利用されています。
<竹永陸軍特攻用飛行場指令所>
菰野町竹成・永井・前の記念公園内
1945(昭和19)年3月、陸軍が設営した特攻訓練用飛行場の指令所の遺構です。敗戦の翌日、一機の特攻訓練機が伊勢湾に突っ込み自爆したと言い伝えられています。近年、前野記念公園が整備され、コンクリート製半地下式指令所の一基が公開されました。
高台にあるこの指令所後からは、眼下に町が広がります。公園内では、自生の“あけび”や “栗のいが”を見つけたりして歓談の輪が拡がりました。
<凱旋門>菰野町潤田(うるた)
県道千種・赤水(ちくさ・あこず)線の竹谷川に架かる「凱旋門橋」の東に、「祝 凱旋 陸海軍」「明治三十八年十月 建之」と刻まれた一対の石碑が建てられています。日露戦争勝利を祝って建てられたものです。15年戦争時は、この門を通っていく出征兵士を見送り、戦死した兵士のお骨を迎えたそうです。今回は車窓から見学となりました。
休憩に、湯の山街道(477号線)沿いで人気の片岡温泉「アクアイグニス」に立ち寄りました。
辻口博啓シェフェの「コンフィチュールアッシュ」は大変な混雑。圧倒されながらもお土産を買おうと長い列に加わりました。
最後の見学地、「弾痕が残る伊勢大橋」(桑名市長島町)は、レジャー帰りの車で主要道の渋滞が激しく断念せざるを得ませんでした。道中の 近鉄“大羽根園”駅前で 今回大変お世話になった岩脇さん、佐藤さんとお別れすることになりました。
帰途、車中では アクアイグニスのお土産「苺一笑(いちごいちえ)」がみなさんに配られ、お土産を買えなかった人も大満足。幹事さんのご苦労に感謝、感謝でした。
また、長い渋滞の中、参加者のシャンソン歌手荻野さんが歌ってくださった「枯れ葉」。秋の夕暮に心を和ませていただきました。参加者一人一人の一言感想に拍手が止まぬなか、 「四日市IC」から東名阪道に入り「御在所SA」で 最終の休憩をとり、予定の5時半には「メガワールド」前に帰着しました。
追記
鈴鹿市は1942(昭和17)年12月、鈴鹿郡国府村・庄野村・高津瀬村・牧田村・石薬師村・河芸郡白子町・神戸町・稲生村・飯野村・河曲村・一ノ宮村・箕田村・玉垣村・若松村の14カ町村が広域合併して発足しました。鈴鹿海軍工廠、海軍航空基地、陸軍飛行場などに供する 広大な民有地の接収を強行する軍部の圧力で誕生しました 。
鈴鹿海軍工廠、海軍航空基地、陸軍飛行場など地域ぐるみの軍事施設の建設運営には、環境・用地・人材・資金を思うままに調達できる「国家総動員法」=1938(昭和13)年制定=が寄与しました。
戦後、これらの軍用地は経済復興に活用され、1953(昭和28)年に旭ダウ(後に旭化)、1956(昭和31)年に倉毛紡績(後にカネボウ)、 1960(昭和35)年に本田技研が進出しました。そして1962(昭和37)年には鈴鹿サーキットができました。