◆所蔵品から◆資料ナンバー8156 渋沢栄一ってどんな人? の話 資料班 



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愛知県国防義会総合支部・支部事務規定

 最近の寄贈で、国防義会に関する冊子があったのです。 議会でなくて、「義」会って、どんな組織なんだ?
 調べてみました。大日本国防義会は、大正2(1912)年創立。会長は渋沢栄一(大正7年から)。
渋沢栄一って、確か前にご紹介した「幼年倶楽部付録 世界百偉人カード」に、載っていたような。
 「世界百偉人カード」については、メルマガ2011年6月号の「所蔵品から」でご紹介しています。
http://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201106/vol_19-8.html

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カード表面 カード裏面

 百偉人カードの渋沢栄一はこちら。
カードの裏側を読むと、
七三 渋澤栄一
渋澤栄一は十四の時から、ももひきにわらぢばきといふかひがひしい姿で、お父様の商売の手助をしながら勉強しました。大きくなってから、「日本の国をりっぱにするには、もっと商工業を盛んにせねばならぬ。」といって、日本に始めて銀行をたてたり、学校をたてたりして、国のためにつくしました。(昭和六年になくなりました)

と、書いてあります。


 
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左:日本史A 改訂版 2009年3月発行 山川出版社
右:夏目勝弘著「青い目の人形物語」2008年12月発行 成工社

 高校の日本史の教科書では、渋沢栄一の名前は 「殖産興業と文明開化 貨幣の統一と銀行の設立」のところで出てきます。国立銀行条例を定め、第一国立銀行を作った、中心の人物なんだそうです。

 ピースあいちで「青い目の人形」展をしたことがあります。
 なんでいきなり「青い目の人形」か、というと、渋沢栄一は「青い目の人形」にも関係があったのです。
 当時(アメリカから人形が贈られたのは昭和2年、1927年のひな祭りでした。)渋沢栄一は、日米協会の会長でした。
 日本に「友情の使者人形」を送ろう、と呼びかけたギューリック博士とも親交がありました。
 外務省・文部省をまわって責任者を説得して歩いて、渋沢栄一は、人形での日米交流を実現させたのです。
 日本からアメリカにお礼の日本人形を送る際にも、渋沢栄一が中心になりました。
 ※「青い目の人形」については、 夏目勝弘著「青い目の人形物語」2008年12月発行 を参考にしました。




詳しい画像はこちらからどうぞ。
http://http://www.peace-aichi.com/20140622_eiichishibusawa.pdf



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http://www.peace-aichi.com/05_objects.html