日本最初の陸海軍連合大演習と新聞報道
ボランティア 林 收
明治23年(1890年)3月29日から4月2日まで、日本最初の陸海軍連合大演習が愛知県知多郡半田町(現・半田市)を中心に行われました。
この陸海軍軍事大演習は、明治天皇を統監、参謀総長有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王を審判官副長に配し、政府からも山縣有朋内閣総理大臣、大山巌陸軍大臣、西郷従道海軍大臣らの重鎮たち勢揃いのもとに行われたものでした。
陸海軍大演習之図
この明治23年には、第一回衆議院議員総選挙(7月1日)、教育勅語発布(10月30日)、第一回帝国議会召集(11月25日)、大日本帝国憲法(明治憲法)施行(11月29日)が次々に行われています。すなわち、明治政府の富国強兵政策が徐々に結実し近代国家としての体裁が整いはじめた時期であり、前年の明治22年には従来の徴兵令(太政官布告)を大改正し、法律として公布しています。いわゆる国民皆兵制度の草創期とされています。日清戦争に突入したのはこの4年後のことです。
陸軍は近衛師団、名古屋第三師団、大阪第四師団が参加し、海軍と合わせた兵数28,000人を西軍(侵入側)と東軍(日本軍)に分け、実戦さながらの演習を行いました。海軍は御召艦の「八重山」をはじめ「高千穂」「大和」「高雄」「葛城」「扶桑」「浪速」「金剛」「鳳翔」「天龍」「筑紫」「摩耶」など28隻の軍艦のほか、水雷艇および運送船が知多半島の東の湾内に展開し、諸外国からも観戦武官が招かれたことが記録されています。
半田地域一帯が重要な大演習のフィールドになった理由として、半田商工会議所メールマガジンで、半田市観光ガイド協会会長 河合克己氏(役職は執筆当時)は、次の様に伝えています。
・わが国の中央にあり、外国の侵入を想定した演習に適していた。
・近くに伊勢湾、衣ヶ浦湾の2湾があり、陸海軍連合演習に適した地勢である。さらに武豊港という良港が武豊線によって東海道線と結ばれ、陸軍の兵員輸送にも都合がよかった。
・当地域は江戸時代から醸造、海運の発展によって富の蓄積がなされ、明治に入ってからは近代産業も勃興し、尾張地方の産業革命の一角を担う土地として発展を遂げていた。
・産業興隆の結果、経済的に豊かで大本営設置に伴う諸事情にも対応できる地域であった。
・演習によって必要な物資の調達や、農作物への被害などに対する保障(ママ)や回復についての不安が比較的少ない地域である。
当時、国の総力を傾けて国威を示すために計画され、史上最初となるこの大演習について、新聞は大々的に報道しました。諸外国の大使公使のほか海外から観戦武官を招いての大規模な軍事演習記事に取材制限のかかるはずもなく、地元名古屋はじめ関東、関西から現地へ乗り込んだ新聞記者たちは、競ってペンを奮い立たせたものでした。中には早まって誤報を伝えたものもあったとされています。1、2の新聞が「東軍の斥候兵(せっこうへい)が西軍の哨兵(しょうへい)に刺された」とか「西軍の高尾艦が東軍の水雷火によって沈没した」ということを報道しましたが、東京朝日新聞はこれを否定する記事を出しています。速報を伝えたいばかりに、裏付けのあまりとれなかったような内容の記事を載せてしまったのか、それとも、正規のルートでの取材があまりできず、信頼のできない筋からの情報を頼りにしたのか、新聞記者たちの意気込みが余り過ぎてこのような記事が作り出された様子がうかがえます。
話を転じて、現在開会中の第185国会に政府は、安全保障を足がかりとして「特定秘密保護法案」を急遽提出しました。「特定秘密」の内容が不明確で、重い罰則つきの「特定秘密保護法」が成立すれば、政府の恣意により国政のあらゆる部門に秘密のヴェールを張り巡らすことも可能となります。新聞報道の自由も制限される虞れさえあります。
「特定秘密保護法案」について政府が行ったパブリックコメント(意見公募)では、9万件を超える応募意見中反対が77%にのぼり、その主な理由としては「国民の知る権利が脅かされる」「特定秘密の範囲が不明確」が挙げられています。これを無視して短時日の国会審議で成立を図る安倍政権の姿勢は要注意です。
この大演習に際して、明治天皇の一夜の宿所に当てられた半田の小栗冨治郎邸が、県の意を体して天皇の夜伽(よとぎ)を設(しつら)えるという筋に膨(ふく)らませ、短編小説「世間(せけん)の棺(かん)」*を著したのは半田出身の作家澤田ふじ子さんです。作品では、幕末、彰義隊に参加して敗走したおり、当主三代目小栗冨治郎の父初代冨治郎(注1 )に恩義を受けた旧幕臣平田靱負(ゆきえ)の娘菊に白羽の矢が立ち、一夜を小栗冨治郎邸に控えることになっています。結局寝所から召されることもなく夜明けを迎え、家路につきますが、世間はそうは見てくれません。あるなしは問題ではなくなり、夜伽に出たという事実だけが動き回ることを悟った菊でした。かねて好意を寄せ合っていた榊原清太郎と晴れて結ばれた菊の懐妊が人目につきだしたころ、父は先の件で婿に執拗に絡む輩を大刀で切り捨て、母と共に自刃しました。さらに榊原清太郎も重罪(注2 )により服役中、明治天皇薨去(こうきょ)による恩赦直前に脱獄して、看守により射殺された悲劇として描かれています。
この小説について、前述の半田商工会議所メールマガジンでは、「この日(3月29日を指す)のことは一部分フィクションではあるが小栗三郎氏の日記(注3 )を下敷きにして地元成岩(ならわ)出身の作家澤田ふじ子が詳しく書いている。」と紹介されておりますが、地元に精通する作者は、眼光紙背に徹する洞察力をもってその日記から、あのような作品に仕上げたものと推察します。
話を戻してこの大演習が行われたことを今に伝える遺跡のいくつかを挙げると、
「.明治天皇名古屋大本営碑」
明治天皇が半田へ入る前々日の3月28日、名古屋大本営を設けて行(あん)在所(ざいしょ)とした東本願寺名古屋別院に残る記念碑。
「明治天皇半田大本営碑」
小栗冨治郎邸に設けられた半田大本営は半田市雁(かり)宿(やど)公園内に移築されて残る。
「錦旗千載駐餘光(きんきせんざいよこうにちゅうす)の碑」
明治天皇観閲の地、知立市来迎寺(らいこうじ)町の猿渡(さわたり)川北岸の丘に建立されている。
などがあります。
(注1)初代冨治郎の長男が二代目冨治郎を継いでいたが、明治23年1月没した後弟の幾次郎が三代目冨治郎を継いだ。
(注2)明確には著していないが、妻菊と幼子を殺したと推量されるふしがある。
(注3)小栗三郎邸は小栗富治郎邸から二軒隔てた斜め向い側にあって、大演習審判官副長有栖川宮熾仁親王の宿所とされた。屋号を萬屋(よろずや)と称した小栗三郎の当日の日記には、殿下の献立から芸妓の侍った時間帯まで克明に記述されている。
* 短編小説「世間の棺」は講談社文庫『寂野(さみしの)』1987.3刊と徳間文庫『寂野』1999.12刊に収録されています。