「戦争中の新聞等からみえる戦争と暮らし」
国防婦人会に加入した売春婦たち
愛知県立大学名誉教授 倉橋 正直
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【1】日本人町と売春婦
日中戦争期、女性を戦争に協力させるために、国防婦人会が軍部のあと押しで作られていた。中国戦線の日本人町でも、国防婦人会は作られた。前号(30号 中国戦線における国防婦人会――女性の戦争協力)で、中国戦線に作られた国防婦人会のことを紹介した。本稿では、国防婦人会に加入した売春婦のことを取り上げる。
日本人町は、駐留する日本軍将兵の「福利厚生」のために、軍部によって作られた。長期持久戦に巻き込まれた日本軍は兵力不足に悩まされる。その結果、一人一人の兵隊を相当長く戦地に派遣し続けることになった。彼らを早期に後方に引き下がらせ、ゆっくり休息させる余裕はなかった。前線に長期にはりつけにされた兵隊は心身ともに消耗する。
戦地につくられた日本人町は、まず兵隊たちに飲食と売春を提供した。戦闘や駐屯の合間に、兵隊たちは順番に最寄の日本人町にやってくる。そこで、彼らは、「おいしい料理を食べ、酒を飲んで騒ぎ、そして売春した」。長い駐留に倦んだ兵隊たちは、日本人町に出かけることで、多少とも戦闘力を維持した。
明治初年以降、日本の売春婦は、芸妓・娼妓・酌婦の3つに分類されてきた。芸妓はいわば高級売春婦であった。娼妓は公娼制度に組み込まれた売春婦(公娼)であり、最も惨めな境遇に置かれていた。遊廓に監禁され、居住と移動の自由を奪われた。また、前借金(ぜんしゃくきん)に縛られ、廃業の自由がなかった。さらに雇い主の楼主に人格的に隷属していた。酌婦はいわゆる私娼である。居住と移動の自由があった。また、廃業の自由もあった。明治の末期、女給という新しいタイプの私娼が生まれてくる。女給はカフェーを売春の場としていた。
日本内地と同じ売春のしくみが中国戦線の日本人町にも導入された。ところが、全部同じではなかった。1909年、日本の植民地であった関東州で、名目上、公娼制度は廃止される。公娼制度下の娼妓の惨めな状況を、外国人に見せたくない、見せるのは国の恥だという理由からであった。こうして、関東州では娼妓は一人もいなくなる。また、遊廓はなくなる。ただ、この措置は名目的に過ぎなかった。だから、酌婦などと名目は変わったが、彼女たちは以前と同様に前借金にしばられ、実際上、廃業の自由はなかった。
関東州で実施された(名目上の)公娼制度の廃止は、その後、満州国に引き継がれる。さらに日中戦争期の中国戦線に形成された日本人町にも踏襲された。だから、日本人町には名目上、公娼制度はなく、娼妓は一人もいなかった。日本人町の売春婦は芸妓、酌婦、女給が基本になった。
売春に関することは、直接的にいわず、婉曲にあいまいに表現することが多かった。飲食を提供する飲食店・料理屋(店)・カフェーなどが、同時に売春の場ともなった。
【2】売春婦の多さ
日本人町における売春婦の状況を伝える史料は相当多い。その中から、ごく一部を紹介する。石家荘(河北省)である。二つの史料はほぼ同じ時期を扱っている。〔大陸録音〕は『大阪朝日北支版』・同『中支版』のコラム欄である。
石家荘の在留邦人五千を突破。そのうち飲食店関係従業者が千人に近いといふことは、この際、余ほど考慮を要する現象だ。こんなことは断じて大陸発展の先駆をなすものではないだらう。(石家荘)〔大陸録音〕
(『大阪朝日北支版』1938年10月9日)
石家荘飲食店、カフェなどの氾濫は居留民三戸に一戸宛。驚くべき数字になって現はれた。こんな不健全な傾向は改められねばならぬ。〔大陸録音〕
(『大阪朝日北支版』1938年11月4日)
石家荘の在留日本人が五千人を突破した。そのうち、「飲食店関係従業者」(その多くは売春婦)が、千人近くいた。また、石家荘では、「三戸に一戸」が飲食店、カフェなどの「飲食」・「売春」関係の家であった。 太原(山西省)について、二つの史料を示す。
大阪朝日新聞北支版 1938年9月18日
「桃色女性だけで三百人突破
凄い太原邦人の進出」
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桃色女性だけで三百人突破 凄い太原邦人の進出 (中略)八月末の在留邦人は2694人。うち半島人が774人。内地人1920人。 (中略)この邦人がどんな営業をしてゐるかといふと、飲食店の86をトップに、雑貨商51、カフェ37、料理店35、旅館33、土木建築業26、 (中略)医師・薬種商各5といふ割合で、日本人相手の水商売が圧倒的に多い。内地人女性総数724人のうち、約半数の315人は芸妓、酌婦、女給といふ商売に携はって、同じく日本人歓楽街の建設に活躍してゐる。カフェ、料理店は多過ぎるくらゐ出来てゐるが、
(『大阪朝日北支版』1938年9月18日)
女給は減少 太原の特殊女性 (中略)「のびゆく太原」の過去三ヵ年における人口増加とこれに比例して特殊女性の増減を、このほど太原領事館警察署で調査したが、十四年には女給306名、芸妓83名、酌婦231名。十五年には女給256名、芸妓103名、酌婦171名。十六年には女給225名、芸妓128名、酌婦146名となってをり、十四年に比して、芸妓は45名の増加。女給、酌婦は減少の一途を辿りつつあり、
(『大阪朝日北支版』1942年2月18日)
この記事から、中国戦線の日本人町に、娼妓がいないことがあらためて確認できる。
女給、芸妓、酌婦の人数を表にして示す。たしかに芸妓だけ増加。女給、酌婦はともに減少している。全体も減っている。
女給 |
芸妓 | 酌婦 | 合計 | |
---|---|---|---|---|
1939年 | 306 | 83 | 231 | 620 |
1940年 | 256 | 103 | 171 | 530 |
1941年 | 225 | 128 | 145 | 498 |
太原在住の日本人は年ごとに増大していった。その中で、売春婦だけが減少しているのは、一見、奇妙である。太原在留の日本人は増えていっても、主な客である将兵たちの立ち寄りが減少すれば、彼女たちの利益は上がらない。やむなく、彼女たちの一部はもっと身入りのよい日本人町に移動していった可能性がある。比較的恵まれていた芸妓は定着する。しかし、女給と酌婦は移動性が高い。身入りが悪ければ、太原を見限り、もっと有利に稼げるところに、さっさと移動していった。
【3】売春婦も国防婦人会に加入して活動する
国防婦人会は満州事変のころ、陸軍の肝いりで設立される。日中戦争以前、国防婦人会の会員は少なかった。日中戦争が始まると戦争の熱狂は女性にも及び、多くの女性がわれ先に国防婦人会に加入した。戦争以前と比較すると8倍にもなった日本人町でも国防婦人会の会員は急増した。。
たとえば、次の史料が示すように、北京では「事変のはじめに六十余名」だった。ところが、戦争が始まり、1年数ヶ月経過すると、千三百余名に増えている。)
北京の国防婦人会員、事変のはじめに六十余名が、現在、千三百余名となる。銃後婦人の団結とその力、いよいよひかる。(北京) 〔大陸録音〕
(『大阪朝日北支版』1938年10月26日)
国防婦人会は女性を戦争に協力させる組織であった。加入にとくに資格や制限はなかったから、誰でも加入できた。日本人町で暮らす女性の中では売春婦が多かった。彼女たちを除外すれば、会員拡大には限度があった。そのため、売春婦たちも加入させてゆく。
北京の場合である。
去月、北京の国防婦人分会が会員不足の為め、遂にカフェーの女給に眼をつけて積極的に勧誘をしたところ、忽ち多数となり、今日では全会員は千二百名に達してゐる事実などは、飲食業の多数を知るに格好である。事変前までは料理店7、飲食店4、カフェー7、喫茶店1が、今日では料理店63、飲食店86、カフェー41、喫茶店11となってゐる。
(支那経済研究所北京支所・山崎勉「北京に於ける日本商業の現状」、『昭和高商学報』9号、1928年10月25日。なお、昭和高商は現在の大阪経済大学の前身である。)
売春婦を加入させた結果、日本人町の国防婦人会員の拡大には目をみはらせるものがあった。国防婦人会の主要な会員は、子育てから手が離れた年配の女性であった。彼女たちは兵隊からすれば、「おばさん」のような存在であった。当時、女性の仕事は限られていた。中国戦線の日本人町でも、売春婦を除けば、若い女性の働き口は限られていた。その状況を山西省太原で、具体的に見てみる。
大阪朝日新聞北支版 1940年12月8日
「太原邦人数 一万二千七百
十月一日現在」
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太原邦人数 一万二千七百 十月一日現在 (中略)内地人10729(男6223、女4506)。半島人1980(男1127、女853)。合計12712。 (中略) また職業別に見ると、男の職業のトップを切るものは、会社員、銀行員、商店員、事務員らのサラリーマンで2695人。女は芸妓、酌婦、その他の719人といふことになってゐる。また職業についてゐるものは、男5189人、女988人、合計6181人。
(『大阪朝日北支版』1940年12月8日)
女性の有職者は988人。このうち、売春婦が719人(73%)を占める。売春婦以外の有職者は269人(27%)に過ぎない。仕事を持つ女性の中では売春婦の比率が飛びぬけていた。これは太原の例であるが、他の日本人町でも、状況はほぼ同じであった。日本人町にいる若い女性の大半は売春婦であった。若い女性で、家庭の主婦の場合、子育てに手が取られ、国防婦人会の活動に参加することは難しかった。
日本人町の国防婦人会の会員は大きく二つのグループに分かれた。一つは年配の女性たちであった。彼女たちが国防婦人会の中心であった。もう一つは売春婦たちであった。彼女たちはまだ若かった。また、子育てをする必要はないから、国防婦人会の活動に参加できた。前号(30号)で、中国戦線における国防婦人会の多彩な活動ぶりを紹介した。売春婦たちはいやいやながら参加したのであろうか。そうではあるまい。彼女たちは、国防婦人会員として、むしろ喜んで、また誇りを持って、活動した。
【4】 傷病兵の見舞いおよび前線慰問
写真
「九江国婦ノ患者慰問」
一枚の写真を紹介する。岩田錠一軍医が九江(江西省)の軍の病院で撮影したものである。「九江国婦ノ患者慰問」という説明がある。8名の若い女性が傷病兵を慰問している。彼女たちはいずれも売春婦であろう。全員、和服に白い割烹着を着ている。国防婦人会のタスキもつけている。女性たちは飲み物を傷病兵に配って、慰問している。
彼女たちの見舞いは入院患者から歓迎された。他方、彼女たちにとっても、誇らしく、また、有意義な仕事であった。戦時下、国防婦人会という組織は世間から一目、置かれていた。国防婦人会の一員として、軍の病院に見舞いに行く。日ごろの兵隊相手の売春とは違って、何か晴れがましく、誇らしい感じのする行為であった。
和服・白い割烹着、タスキ掛けの国防婦人会の三点セットをつけることで、日ごろと異なり、別のタイプの人間になったかのような印象を持ったことであろう。傷病兵の見舞いはたしかに一銭にもならなかったが、それでも、彼女たちにとっては得がたい経験の場であった。彼女たちは髪を整え、きれいな服を着て、いそいそと病室に入ってゆき、傷病兵を見舞う。彼女たちは、あたかも舞台に上がった女優さんのように、写真にきれいに写っている。彼女たちにとって一つの晴れがましい舞台であった。
また、彼女たちは危険を冒して前線部隊を慰問した。天津の国防婦人会は4つの班を作り、周辺にいる部隊を慰問した。
国防婦人会天津支部では、陸軍記念日行事の一として、9日、左記の四班にわかれて、○○部隊最前線の皇軍慰問を行ひ、各皇軍部隊から深く感謝された。第一班、 郎坊行15名(旭新番料理店組合) (中略)第二班、 永清行15名(マルタマ少女歌劇) (中略)第三班、 覇県行き20名(カフェー組合)(中略)特別班、 唐山行18名(曙街三業組合)
(『大阪朝日中支版』1941年3月16日)
料理店組合、カフェー組合、三業組合(料理屋、待合茶屋、芸者屋の三業種の営業者で組織された同業組合。三つとも売春に関係する業種である。)という名称から、慰問に出かけていった女性たちはいずれも接客業・売春婦であった。マルタマ少女歌劇は、天津にあった少女歌劇団である。若い女性が前線まで慰問に来てくれたので、兵隊たちは大喜びしたことであろう。郎坊、永清、覇県および唐山はいずれも天津周辺に位置する田舎町である。こういった地域に慰問に行くのにも、相当の危険があった。。
次は太原(山西省)の話である。
前線の兵隊さんを慰問す 太原の居留民と女給さん (中略)また、カフェ組合では、女給さんたちよりなる慰問団を組織し、山西前線を巡廻、歌や踊りで慰問行をなすことになった。
(『大阪朝日北支版』1940年10月5日)
安徽省に属し、長江(揚子江)に面した大きな都市安慶では、白衣の勇士、すなわち傷病兵を慰問するために運動会が開かれた。
【5】 売春婦だけで運動会を行い、国防婦人会の分会を作る
日本人町では、娯楽と親睦のために、駐留する兵隊も参加させて、運動会がしばしば行われた。国防婦人会は運動会に積極的に参加した。売春婦たちも、国防婦人会員として運動会に参加した。中には、売春婦だけで運動会を行うこともあった。売春婦だけで運動会を行った史料を二つあげる。はじめは「天津の女給さん連」が行った運動会である。
五月の薫風をうけて、天津の女給さん連、一日、運動会を挙行。かう跳ねたり、をどったりするのは結構だ。が夢、「あなたのあたしより」なんて甘い手紙で、「営業停止十日間」を釣らぬこと。(天津)〔大陸録音〕
(『大阪朝日中支版』1939年5月19日)
安徽省に属し、長江(揚子江)に面した大きな都市安慶では、白衣の勇士、すなわち傷病兵を慰問するために運動会が開かれた。
傷の痛みも忘れて打興ず 安慶で勇士慰安運動会 (中略)出場者はいづれも在安慶国防婦人会のきれいどこばかり百名―襷にエプロン姿もりりしく、提灯競走や二人三脚、座頭レースなどと、つぎつぎ繰展げ、担架患者の後送レースなどには、白衣の天使に劣らぬ大和撫子の気性を発揮して、手際よくやってのけ、本職の岡本部隊看護兵さんたちも、"ちゃっかりしとる"と賞賛してゐた。
(『大阪朝日中支版』1939年6月28日)
出場者が「いづれも在安慶国防婦人会のきれいどこばかり百名」というのが変わっている。「きれいどこ」という表現から推測すれば、彼女たちは兵隊を相手とする売春婦であった。そういった女性たちをわざと駆り出して、運動会に出場させる。その目的は、彼女たちの気分転換や健康増進のためでは決してなかった。ずばりいって、彼女たちの「おひろめ」であった。
運動会は客寄せのための興行として開催された。兵隊や在留日本人たちに彼女たちを売り込んだのである。運動会で嬌声をあげながら元気に走り回る彼女たちを、お客である安慶周辺に駐屯する兵隊や在留日本人たちに見せる。運動会を通じて、安慶の町にどのような女性が来ているか、白昼、堂々と紹介したのである。したがって、この運動会の主役は年若い女性たちであった。百名の売春婦が打ちそろって、運動会を行うことは難しかった。しかし、彼女たちは他方で国防婦人会員でもあった。国防婦人会員として、傷病兵を慰問するために運動会を開くといわれれば、彼女たちの企画に反対することは難しかった。
次は天津の場合である。
国婦会員の一日入営 現地銃後婦人として、ただ家庭を護るばかりでなく、軍事知識を勉強しようと、国婦天津支部では『一日入営』を志願してゐたが、許しを得て、1月27日午前10時から、大和、吉野、河東、旭、高千穂、秋山、河北、華街、極、北站の各分会から、二百名のをばさんたちが白エプロンにモンペといふ勇ましい姿で、勇躍、○○部隊へ入営、
(『大阪朝日北支版』1943年2月3日)
大和、吉野、河東などは天津の日本人町の町名である。居住する町が単位になって国防婦人会の分会は作られていた。一般に国防婦人会は、会員が居住する地域によって編成された。ところが、時に売春婦だけで別に編成され、独自に活動した。次も天津である。
女給さんたちで国婦を結成 天津国防婦人会では、斯道の権威者たる鳥居大佐の着任以来、着々力強い成績を上げ、銃後の護りを固めてゐるが、こんどはカフェ、飲食店などの女給さんたち750名だけで、国防婦人分会が結成されることとなり、その発会式が二月二日、天津日本商業学校講堂において、花々しく挙行されることとなった。
(『大阪朝日中支版』1940年1月30日)
天津では日本人町は大きかったから、国防婦人会を指導する鳥居大佐の考えによって、居住する地域とは無関係に、750名の女給だけで、独自に国防婦人分会が作られることになった。他の日本人町はもっと規模が小さく、売春婦の人数も少なかったから、天津の場合のように、女給だけを分離させ、独自の分会を作ることは難しかった。天津の企ては例外的なものであった。
【6】 売春婦たちへの批判とそれへの反論
売春婦たちは国防婦人会員として、各種の行事で生き生きと活動した。彼女たちの活動が目立つので、次の史料はそれを批判している。
国防婦人会の会合ごとに、市中に商売女が氾濫。個々女性の真実は有難いが、"日本の女"がみな商売人である様なのは、華人の手前、どうかな。こんなになる前に統制するて、なかったのかと残念に思ふ。(北京)〔大陸録音〕
(『大阪朝日中支版』1939年7月29日)
国防婦人会員の大半は年配の女性であって、売春婦はむしろ少数に過ぎなかった。しかし、若い女性ということで目立った。その結果、たしかに「国防婦人会の会合ごとに、市中に商売女が氾濫」というような印象を与えてしまった。売春婦がとても目立つので、中国人には若い日本人女性はみんな「商売人」、すなわち売春婦と思われてしまうではないかと心配している。しかし、不本意でも、これが日本人町の現実であった。若い女性の多くは売春婦であり、かつ、彼女たちを国防婦人会に加入させ、各種の活動をさせている以上、しかたのないことであった。
しかし、現実には売春婦たちはさまざまな批判にさらされた。それだけ、彼女たちの活動が目立ったからである。いわば「出る杭は打たれる」のことわざ通りであった。また、売春婦に対する伝統的な蔑視観もあった。国防婦人会員の大半を占める年配の女性は家庭の主婦であった。彼女たちは売春婦たちをあからさまに蔑視した。そういった感情を彼女たちは隠そうとしなかった。だから、国防婦人会の各種の活動の中で、売春婦たちはいろいろ不愉快な目にあった。国防婦人会の中で、年配の女性と売春婦は互いに反目しあった。
『大阪朝日北支版』が各界の人々から、「総動員」について意見を聞いている。その中で、珍しく売春婦側にも意見を聞いている。次の二つの史料は売春婦側の反論である。初めは女給の石倉治子、次は天津曙街の芸妓の梅太郎である。
彼女らに聴く"総動員"⑧ 石倉治子さん (中略) (三)居留邦人への希望
私ども女給稼業はしてゐても、お国へ尽す誠心は、どんなに身分ある御婦人方にも負けないつもりです。ですから、国防婦人会などの集会で差別視することはやめて頂きたいものです。
(『大阪朝日北支版』1938年9月21日)
彼女らに聴く"総動員"⑨ 天津曙街 梅太郎さん(中略) (三)居留邦人への希望
ダンスホール業者やネオン街の者が、一生懸命に国防献金や傷病勇士慰問を実行してゐるのに、兎や角、陰口をいふ居留民の方々こそ、もっと積極的に献金や慰問をなすべきではないでせうか。
(『大阪朝日北支版』1938年9月22日)
女給の石倉治子は、「国防婦人会などの集会で差別視することはやめて頂きたいものです。」と率直に訴えている。彼女たちは懸命に努力しているのに、なお、国防婦人会の集会でいろいろいじめられていたのである。
また、芸妓の梅太郎は、「兎や角、陰口をいふ居留民の方々こそ、もっと積極的に献金や慰問をなすべきではないでせうか。」という。歓楽街は戦争景気に沸き立っていた。そこにいる芸妓たちの収入も多かった。だから、彼女たちは国防献金などでは思い切って多額の献金をした。そういった実績を踏まえ、悪口をいうのなら、自分たちに負けないぐらいの額の献金をしたらどうだと反論している。歓楽街の住人ほど経済力のない居留民にとっては、彼女の反論はきつかった。
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