「張作霖氏坐乗列車爆破現状絵葉書」
―――関東軍が作成・販売させた絵はがきセット        倉橋 正直


 
絵はがき

 岩田錠一(いわた・じょういち 1896~1976)は名古屋出身の軍医。軍医といっても、レントゲン技師で、階級は准尉・少尉程度。1938年7月から1941年1月まで、約2年半、出征する。レントゲンを扱う下級将校。戦地にいても、仕事がら自由に撮影し、自由に現像できた。南京と漢口で写した写真が少しあるが、大部分は江西省九江市の軍の病院内で撮影したものである。九江市は揚子江(長江)中流の重要な港町。別荘地で有名な廬山(ろざん)の登り口に位置する。
 岩田錠一軍医と彼が残した写真集については、『中日新聞』(2010年8月15日)で、すでに紹介された。写真集以外に絵はがきなどがある。

倉橋画像 封筒

封筒表面コピー

 岩田錠一軍医が残した手紙類の束の中に、おもしろい史料があった。関東軍は、1928年6月、張作霖を爆殺する。その現場を写した写真を絵はがきセットにしたものである。9枚の白黒の絵はがきが、封筒に入っていた。封は開いていた。9枚組みの絵はがきセットというのは通常、考えられないので、当初はおそらく10枚あったのではなかろうか。1枚はすでに使用したのであろう。

 

 封筒の表に「昭和三年六月四日午前五時三十分  張作霖氏坐乗列車爆破現状絵葉書   発売元 陸軍、海軍、関東庁、満鉄 御用  並ニ煙草製造販売  奉天浪速通り 第一公司  電話一四○六番」と記されている。封筒の裏面は白紙である。

絵はがきキャプション部分

絵はがきキャプション部分

 写真に番号はついていないので、撮影時期の順序は不明。写真はすべて横長。写真のキャプション(説明文)は9枚とも全部同じで、写真の下に、「昭和三年六月四日午前五時三十分張作霖氏座乗列車爆破現状」とあるだけである。絵はがきの写真の説明としては、まことに芸がないという印象を受ける。

 この絵はがきに関連する資料をたまたま見つけた。本間和夫(山形放送報道部記者)「現場は証言する 張作霖爆殺事件 セピア色の写真を追って」『別冊歴史読本1988特別増刊』、(新人物往来社、1988年10月、グラビアと41~45頁)である。
 ――それによると、関東軍の神田泰之助中尉(爆殺事件に実行部隊の一人として参加していた。)が撮影した写真を、山形県藤島町の元陸軍特務機関員のSさんが保管していたという。写真は61枚あり、このうち、30枚は1番から30番まで番号がふられている。この写真は1986年、NNNドキュメントとして放映された(『セピア色の証言~~張作霖爆殺事件・秘匿写真~~』)。このうち、28枚が『別冊歴史読本1988特別増刊』に収録されている。
 絵はがきの9枚のうち、2枚が『別冊歴史読本1988特別増刊』所載の写真と同じであった。2枚の写真の番号および、写真に本間和夫がつけた説明を紹介する。

絵はがき4番

絵はがき4番

 4番。
「爆破直後の写真。黒煙が舞い上がり、後ろの車輌に火が燃え移ろうとしている。まだ一人の人影もない。写真機のシャッターを押した者はいるのだが…」

絵はがき10番

絵はがき10番

 10番。
「後続の車輌に火が移り、燃え上がっている。」

  山形県で発見された張作霖爆殺事件の写真と、絵はがきの写真が2枚、同じのもであった。ここから、絵はがきのもとになった写真は、関東軍のスタッフが撮影したものであることが判明した。このような写真は、民間人では到底とれない。関東軍のスタッフが当日、証拠写真として残すために、相当多数の写真を撮影していたと推測される。その中から、10枚(?)だけ選び、絵はがきセットとして販売したのである。

 販売元は奉天(現在の瀋陽)浪速通りの「第一公司」となっている。第一公司について、二つの史料を見つけた。

 「第一公司   工場所在地  奉天浪速通三十七番地  資本金 五○○○円
常時職工使用数及び賃金  日人 一人  華人  三九人 60銭」、『奉天経済二十年誌』、奉天商業会議所、昭和2年(1927年)、595頁

 「第一公司  【所在】奉天春日町八  【営業主】木下亮九郎(明治四年五月二六日生)  【営業科目】口付巻煙草製造  【開業】大正十二年七月  【販売先】満鉄沿線各地  【沿革】大正八年朝鮮煙草株式会社奉天出張所主任として来奉し同社解散後独立して本業を開始したり、製品は国の光、橋立、舞子の三種なり、木下氏は予備陸軍大佐(勲三等功五級)にして在郷軍人奉天分会長として衆望を荷へり」、『昭和拾年版 第九回奉天商工興信録』、奉天興信所発行、昭和10年(1935年)4月、168頁

絵はがき


 「奉天浪速通り」は、満鉄附属地の中にあった場所。営業主は木下亮九郎。1871年生まれなので、1928年当時で、57歳ぐらい。煙草を製造・販売していた。資本金5千円で、日本人一人、中国人39人の職工を雇っていたというから、会社の規模はかなり大きかった。木下亮九郎はもと陸軍大佐。在郷軍人奉天分会長であった。

 発売期間や、岩田軍医が購買した年月は不明。発売期間は、爆破事件があった1928年6月から、1931年9月満州事変までの間と推測する。この絵はがきセットの販売には、関東軍がバックにいた。関東軍は張作霖の乗った列車を爆破、暗殺する。しかし、この時には、すぐに軍事行動は起こせなかった。それでも、関東軍としては内心、大成功と理解する。大手柄を立てたものと「早とちり」する。当然、賞賛されるものと思っていた。ところが、実際には賞賛されず、逆に非難される。これは予想外。おもしろくない。そこで、この絵はがきセットを作り、民間の会社・「第一公司」を通して、販売させたのであろう。

絵はがき

 この絵はがきセットを見れば、張作霖の乗った列車を爆破、暗殺したのが関東軍であることは一目瞭然である。絵はがきセットの作成・販売は、いわば関東軍のデモンストレーションに当たった。この時期、このような絵はがきセットの作成・販売をあえて行った関東軍のやりかたから、私は「やんちゃ坊主」のような感じを受けた。
 それでも、この絵はがきセットを、関東軍の権威が通用する満鉄附属地で販売している所に時代を感じさせる。それも、関東軍の息のかかった在郷軍人会会長の会社から発行させている。「第一公司」は本来、煙草の製造販売を業務としていた。絵はがきの作成・販売は場ちがいである。絵はがきの作成・販売を通常の業務としている印刷・旅行関係の会社からではなく、在郷軍人会会長の経営する煙草製造販売の会社から発行させている。また、中国東北地方から離れ、日本内地で販売するほどの力を、この時期、関東軍もまだ持っていなかった。

絵はがき

 満州事変後、関東軍の勢威はすさまじく上昇し、満州国のあらゆる面にわたって、関東軍が牛耳るようになる。しかし、この段階では、関東軍はそのような絶大な権力を掌握しておらず、その権威はまだ限定的なものであった。
 この絵はがきセットが奉天で販売されたことは当然、中国側も知ることができた。この絵はがきセットの販売から、中国側(張学良地方政権)は、関東軍の精気がまだ勃々としておさまっていないこと、まだ何か企んでいるとニラむべきであった。こういった絵はがきセットの作成・販売という、一見、ささいなできごとに、実は大きなたくらみが隠されていると理解すべきであった。その意味では、張学良地方政権はウカツであった。

 岩田軍医は、この時期、奉天に出かけたことがあり、たまたま、この絵はがきセットを購買したのではないか。同じものが、どこかに残っているとよい。―この絵はがきセットは珍しい。知られていない。このことから、この絵はがきセットは販売されたことはされたが、販売期間も短く、また、販売部数も僅少だったと推察される。

中日新聞  2011年8月15日 夕刊

中日新聞 2011年8月15日 夕刊


*『中日新聞』(2011年8月15日、夕刊)は、『「張作霖爆殺事件」はがき発見』という題目で、この絵はがきセットのことを紹介してくれた。

絵はがき


<追記>
「決別感謝書」―――離任する占領軍将校への感謝状
 その手紙類の束の中に一通の封筒があった。封筒の表に
「謹呈  岩田大人殿  渡辺部隊苦力総班長 周文傑  鞠躬(きっきゅう)」
と記されている。名前の下に、「周文傑章」というハンコが押されている。封筒の裏面には何も書かれていない。封は開いていた。封筒の中に、「決別感謝書」と記された、一通の中国語の文書が入っていた。文書は表だけ記されていて、裏面は白紙である。

 文章の日付は「中華民国30年1月24日」である。1941年1月なので、岩田軍医が除隊のため、九江市を離れる日に近い。「渡辺部隊」は、岩田軍医が所属していた部隊の名前で、部隊長は渡辺順という名前であった。
 筆者の周文傑なる人物は「苦力総班長」と自称している。中国人は自分から「苦力」(クーリー)とはいわない。したがって、これは日本軍がつけた名前である。「苦力総班」についてはわからない。おそらく日本軍が、九江市で下働きさせるために、中国人労働者を急遽、かき集めて結成した非公式の組織であろう。軍の正式な組織ではなく、九江市に駐屯する部隊が必要から勝手に作ったものと理解したい。

 また、文末に七言の詩がついている。文章から判断して、「苦力総班長」たる「周文傑」は相当なインテリである。インテリでなければ、これだけの文章を書けない。

絵はがき

 岩田軍医はレントゲン技師で、下級将校であった。彼が2年半の滞在を終え、除隊・帰国する。その知らせを聞いて、このような丁寧な礼状を贈っている。岩田軍医は在任中、配下の中国人「苦力総班」によっぽどやさしく当ったのであろうか。そうではあるまい。日本軍の下級将校として、彼らに対して標準的な対応をしたにすぎないと思われる。
 この「決別感謝書」を読んで、私は中国人のふところの深さに感心してしまった。占領軍の下級将校が除隊で任地を離れる。ただ、それだけの事件に対して、これだけ丁重に、礼を尽くす。もらったほうは、もちろん悪い気持ちはしない。その「決別感謝書」を捨てないで、日本に大事に持ち帰る。それで、この「決別感謝書」が今日まで残っていたわけである。

 漢民族は数千年の間、時に異民族の支配を受けてきた。異民族の支配を受けた時、どのように対処すべきか。長い歴史を経る中で、おのずと経験が蓄積される。軍事的には支配されている。軍事がだめなら、文化があるという感じを私は受ける。インテリの「苦力総班長」が、高い文化水準を示して、まもなく離任する占領軍の下級将校にこういった感謝状を贈る。中国の高い文化の力を、私はこの文書から感じた。
 軍事的には隷属している。屈辱的な隷属民の境遇にいる。しかし、文化方面では、決して屈服していないことを、ごく自然に示す。それも、わざとらしく示すのではない。下級将校の離任・帰国という、ありふれた事件に合わせて、それをさりげなく示す所がこころにくい。中国民族の文化的な底力(そこぢから)の強さを私は感得した。こういった類の文書が、他にも多く残っているのであろうか。調べたいものである。

絵はがき


● 決別感謝書の翻訳

 お別れに当って感謝を申しあげる書。
 岩田錠一先生、ご高覧願います。苦力をつとめている私たちが、かたじけなくも、先生のお気に入りとなってから、もう三年になろうとしています。厚遇されることの多さが、ますます増える一方です。朝早くから夜遅くまで、そのことを思うと、深く心に記して忘れようにも忘れられません。しっかり覚えて忘れません。
 先生が光栄ある帰還をなさると、近ごろ聞きました。名残惜しくてなりません。謹んで短い文章を書き記し、いささか感謝の気持ちを表します。道中、安全に、予定通り日本内地のお宅に無事に着くことをお祈りいたします。もし見捨てられないならば、以前に教えていただいた教えを指針とし、それでもって、およばない所を正しく直したいと願っています。
  先生はこれからまだ先が長い。万一、先生と一緒に仕事ができる場合には、これまでのご厚情に報いるつもりです。
  奥様と男女のお子様たちのご幸福を祝い奉ります。

  七言の詩一首をあわせて付け加えます。

皇軍は一日に千里を行くというすぐれた馬を走らせ、潯陽江(じんようこう 九江付近の河川)に入った。
潯陽江の両岸の人々は歓呼して、気がちがったように喜んだ。
今から先生は凱歌をあげて光栄ある帰還をなさる。そのあとも、
私たちを助けてくれた先生のご恩は、いつまでも忘れない。

  渡辺部隊・苦力総班長・周文傑は、謹しんで全班の苦力を率いて、ともに頭を下げてお礼をいたします。
中華民国30年(1941年)1月24日  謹んで記す